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このページは、私達の活動を影になり日向になり支援してくれている音楽仲間を紹介するコーナーです。
ただ、原稿を事前にご当人に見てもらって了解を取っているわけではありません。
こちらからの“一方的な思い入れの気持ち”或いは“その人達を通して見た私達のこと”を言葉にしたものです。
もし事実関係の誤りに気がついたらご連絡ください。
仲間の輪の1番目にご登場願うのは、門倉さとしさん。
大詩人をつかまえて、「仲間」とはおこがましいが、今の神野和博を語るとき、門倉さんを抜きにしては語れない。
1.「二十歳」のこと
門倉さんの詩による「二十歳」は、神野和博の大学時代所属していた教育大・お茶大「あらぐさ」というサークルの中で生まれた曲である。ちょうど私が二十歳の頃に作った曲である。
「二十歳」の詩はうたごえ新聞に掲載されていた。
当時「うたごえ新聞」には、色々な方が詩を投稿されていて、その詩を読んで色々な方が競って曲をつけていた。だから、同じ詩にいくつもの曲がつくということはよくあった。(ちなみに「二十歳」にも私以外の方がつけた曲が存在する)
この詩を読んだとき自分自身のことがうたわれているような錯覚を覚えた。
愛媛県の片田舎から東京という大都会に出てきた私は、夢と希望を抱いて大学生活を始めたものの、東京に知り合いがいるわけでもなく、「井の中の蛙大海を知らず」じゃないけど世間知らずで、人との付き合いも下手で、一人ぼっちであった。
だから、どこかのサークルに入って大学生活を謳歌しようという気持ちはあったものの、なかなか行動に起こせないでいた。
ただ、1年間の浪人時代京都にいて、うたごえ喫茶「炎」を知り、そこで歌われている歌の魅力、みんなで大きな声で歌うことの楽しさを経験し、大学に入ったら漠然と“そういう雰囲気を持ったサークルに入りたい”と思っていた。
しかし、とりあえずサークルとして選んだのは、ギター同好会(エレキが中心)であった。きっかけは、学部の同級生から声をかけてもらったものだが、当時はベンチャーズ全盛で、またジョーン・バエズ、ブラザーズ・フォー、P・P・Mが人気があって、その人達の歌を取り上げてギターで演奏したり、歌ったりしていた。それはそれで楽しかった。
ただ、いつもうたごえ喫茶の楽しい雰囲気が頭を離れなかった。
そんな時、昼休みに大学の中庭に集まって、アコーディオンの伴奏で、大きな声で歌っている一団を発見。それが「あらぐさ」が週一回行っている「うたう会」だった。京都の「炎」のようなサークルが教育大学にもあったんだ、というわけで「あらぐさ」に入部することになった。
あらぐさでは、ロシア民謡をはじめたくさんの歌を覚え、歌った。もちろんその中には門倉さん作詩の曲もたくさんあり、「二人」とか「わらぐつの歌」は特に大好きであった。先輩からは、おまえはセンチメンタルな歌が好きだ、などとわけのわからないことを言われた記憶がある。
そんなときに「うたごえ新聞」で「二十歳」の詩を見つけたのである。
“どこかで待っている人を探して 歩きつづけた私”
“前を向いて歩きつづけ”
“どこかで歌っている仲間を求めて 歩きつづけた私”
“村を出てから 一人きりのときも”
“仲間を知った 私は二十歳”
“胸を焦がして ひたむきにいつも”
「二十歳」の一節の抜粋ですが、まるで自分のことを詩にしてもらったような気になったことを覚えている。
2.門倉さんとの出逢い
「二十歳」を作った当時、門倉さんとの面識はなかった。
初めて会ったのは、「二十歳」を作ってから四半世紀も経った1993年。久しぶりに行ったうたごえ喫茶「ともしび」で、ある人から声をかけられ、会う機会をセッティングしてもらった。
場所は、やはりうたごえ喫茶「ともしび」。別々に来た二人は、ほとんど隣同士の席に座っていたにもかかわらず、紹介者が来るまでお互いのことがわからなかった。
初対面の印象は、僕より10歳以上も年上のはずなのに、振る舞いはきびきびとして若々しさに溢れ、弁舌さわやか、見つめる目は夢見るような輝きに満ちていた。まさに万年青年の趣。
門倉さんからは又もういちど曲作りに挑戦するように、何度も勧められた。そして、その日以来、門倉さんからは毎月のように詩を送っていただくようになり、再び作曲に取組む意欲を呼び起こしてもらった。
そして、1年近く経った1994年10月22日、その間に書き溜めた曲を発表しようという話がまとまり、初めての神野和博&門倉さとしオリジナルコンサートが「この街、あの人−あたらしい出逢いの広場を!」と題して開催されることになる。更に、翌年1995年5月14日には第2回目が「遠い日の記憶☆歌・ふるさと☆そしてあの人」と題して開催されるに至る。
この時期、久しぶりに曲作りに夢中になっていた。今までのブランクを取り返すかのように。
送られてくる門倉さんの詩には「二十歳」の時に感じたと同じような共感があふれていた。
門倉さんから詩を送ってもらうようになって初めて作った曲で、第1回目のオリジナルコンサートでも発表した「なにげない歌」は、自分でも気に入っているが、次のような詩だった。
なにげなく 風が吹くように
なにげなく語りかける
あなたのことばのやさしさを
どれだけ深く燃やせるでしょう
言葉すくなに 今日もまた
歩きつづける あなたがすきです
なにげなく 花が開くように
なにげなく笑っていた
あなたのほほを叩きつけて
冷たい風が 走ってゆきます
つらいときほど 人の心を
暖めつづける あなたがすきです
なにげなく 足をひくように
なにげなくあるいていく
あなたの背中の長い影
少しやせたのが 気になるのです
なにも言わずに 人の痛みを
暖めつづける あなたがすきです
いつも弱いもの、虐げられたものの味方で、やさしく包み込み、励ましてくれる、そんな詩です。
たくさんの詩を送っていただきながら、その何十分の一も曲にすることができないでいますが、またいつか門倉さんとのジョイントコンサートを、と考えている。
そして、門倉さんからは今も詩を送っていただいている。本当にありがたいことである。
3.門倉さんの作品
門倉さん作詩の曲は数限りなくある。
思いつくだけでも……。
「たんぽぽ」,「桑畑」,「わらぐつのうた」,「青春」,「二人」,「南ベトナムからの手紙」、「君は胸をはって」、「火」。
うたごえ喫茶で、うたごえサークルで、地域の歌う会で今でも歌われている曲がきら星のごとく並ぶ。
ちなみに「うたごえ愛唱歌集1000曲」から拾ってみるとこれ以外にも、
「芦別の雪の中を」、「アフリカの子」、「こぶしの唄」、「ふきのとう」,「おれたちは太陽」,「風花」,「この手をつないで」,「地雷ではなく花をください」,「素晴らしい明日のために」,「鉄板のうた」、「人間のうた」、「アコーディオンがつぶやいた」、「夜明けの歌」、「雪がふる」
なんと23曲(「二十歳」を入れて)の多きにのぼった。
そして、作曲者の名前を見てみるとそうそうたる名作曲家の名前が並ぶ。
中田喜直、芥川也寸志、いずみたくとクラシック界で、マスメディアで名立たる作曲者の名前を見つけることができる。もちろん、うたごえ運動の中で多くの曲を作っている林学、高平つぐゆき、関忠亮、寺原伸夫の方々も曲をつけている。うたごえ運動の原点といってもいい荒木栄も曲をつけていた。
これほどまでに多彩な作曲家から曲をつけている作詩家は他にはいないであろう。